試行錯誤から生また帽子 ー ハットメーカー横山寛久のレールを外れた生き方

横山寛久:日本人で始めて帽子の業界で唯一のマガジンの「HAT Magazine」にてデザイナー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、雑誌の表紙をかざる。ニューヨークを拠点にギャラリーや展示会に参加し、その実力がみとめられ、日本では伊勢丹、BEAMS、アローズ、ナノユニバースなど有名店舗で販売。今はロウアーイーストにて「yokkoyama hat market」をオープン。

たまたま訪れたニューヨークでニューヨークが好きになり、大学時代にレールを外れた生き方をすると決めてニューヨークに留学。そこで3年留学して見つけた帽子職人への道。だけど、帽子のスキルも何も知らない0からのスタートなのに、日本で見つけた帽子の学校で教えてくれた期間はたったの1日。だけど、そこで学んだ自分なりに試行錯誤しながら作り上げる大切さから生まれた世界で1つだけの帽子は今では世界が認める帽子へ。

そんな横山さんに今までの道のりをお聞きしました。

スケボーがアメリカを好きになるきっかけ

ー 今日はよろしくお願いします!まず、何がきっかけでニューヨークにきたんですか?

YOKOYAMA : 中学生の頃はスケボーにすごいハマんですよね。だからその時はアメリカ=カルフォルニアってイメージがあったんです。その影響もあって高校1年の時に2週間くらいカルフォルニアにホームステイしたんですが、この時はスケボーは持ってくの辞めて、真面目にカルフォルニアを楽しもうとしたんだけど…思いのほかモテたんですよね。(笑)「アジア人がこんなにモテるのか…アメリカいいな」って素直に思った。この時はニューヨークなんて全く考えになかったし、ニューヨークって言ってもスケボーの映像でたまにニューヨークのスケーターとか見てたけど、「あー、ニューヨークか」くらいにしかおもわなかったんだ。ただ、ジャズは好きだったから「いつかニューヨークでジャズ聞いてみたな」とは思ったけど、カルフォルニアみたいに「いつか住んでみたい!」とは思わなかったな。

ー カルフォルニアから日本に帰国されて、何か変わりましたか?

YOKOYAMA : 当時スケボーやってる人ってみんな、スケボーやりながら自分たちで広告作ったり、服作ったり、音楽作ったり、デザイン作ったりするクリエイティブな人達がたくさん周りにいて、俺はカメラを持って友達の写真とかを撮ってたんだ。当時は将来はどこかで働くというより、「いつか仲間達と会社を作って金稼ぐんだろうなー」とか思ってましたね。そして、この時仲良かったメンバーで「卒業旅行でどっか行こう!」って話になって「どこがいいか?」って聞かれたんだけど、どこでよかったから「どこでもいい」って言ったんです。そしたら「ニューヨークに決まった!」って言われたんですよね。その時は「お〜ニューヨークか…遠いな…」って思ったのを覚えてる…(笑)だけど、ジャズ好きだったし、ニューヨークに行くのは抵抗はなかったです。

ー 実際にニューヨーク行ってどうでしたか?

YOKOYAMA : その友達がお金持ちで親の友達がニューヨークに駐在してたみたいで「シェラトンホテルが安く泊まれるからシェラトンに泊まろう」とか色々話があったけど、面倒くさいから全て任せたんです。飛行機で13時間移動して、夜JFK空港について、空港からタクシーでホテルに向かう時にマンハッタンを始めて生で見た時は「これがニューヨークか…迫力あるな…」って思ったのを覚えてる。だけど、こんな感動するようなシーンは一瞬で、1997年のニューヨークは治安がまだまだ悪くて、至る所で喧嘩してるし、ホームレスはガンガン話しかけてきたりしてたんです。怖い所とは聞いてたけど、本当に怖かった。当時はまだバブルの弾けた後だったからホテルの受付も日本語が話せるスタッフがいたのが幸いでした。当時は日本人に優しかったんだ。チェックインしてすぐ受付のスタッフがマンハッタンのマップだして「8avは危ないから行っちゃダメですよ」って言われて大きく×の印をつけられたんです。怯えたね(笑)ニューヨークが嫌いになりかけたけど、ジャズを聞いたり、レコード店回ったりしてる間にニューヨークが好きになちゃったんです。

ー そんな危ないニューヨーク旅行だったんですね。では、卒業旅行が終ってから留学したんですか?

YOKOYAMA : 違います。卒業旅行を終えて大学に入学したんだけど、当時の日本の大学では2年生くらいから周りが就活活動を始めるんですが、その時にどっかしら会社にはいらないとヤバイっていうマインドコントロールがすごかったんです。だから、当時は就職が決まらないことが恥って文化もあって、周りも「お前どっか決まった?」とか毎日のように聞いてきて、決まらない=人生終わりみたいな雰囲気がすごかったんです。そんな雰囲気を見て「これ、ちょっとやばいな」って思ったのもあり、とりあえず休学して1年だけニューヨークに留学にいこうって決めたんです。

ー 始めはニューヨークの語学学校にいかれたんですか?

YOKOYAMA : そうそう、始めは語学学校行きました。その時は語学学校に行きながら、写真の授業とアートの授業を受講したんだけど、当時アートの授業はアメリカ人しかいなくて、すげー頭痛くなっちゃってすぐ辞めました(笑)英語も全く出来なかったのもあったけど、チャレンジ精神だけじゃ乗り切れないものがあるんだなって知った時でもありましたね。この1年は本当に早かった…当時はこのまま残るのもありなのかな?とも思ったけど、これで残ると全部が中途半端になるって思って日本に帰って大学を卒業することにしたんです。そして休学してた大学に戻って卒業して、就活をして当時某有名英会話の会社の最終面接までいったんだけど、この面接で俺はニューヨークに戻るきっかけが出来たんです。

ー 何があったんですか?

YOKOYAMA : その面接官に「自分は将来アメリカに住むか悩んでいます」って言ったら、「弊社をそんな中途半端な考えて面接に来られているんですね」ってすごい怒られたんです。だけど、俺からしたら「たった1回の人生でアメリカで挑戦するか、貴社で働くかを考えるのは中途半端な考えではないだろ」って素直に思ったんです。「こんな日本企業じゃ俺はダメだ」って思った時にはニューヨークに留学することを決めました。当時は「普通にコピー取ったりするバイトするくらいなら、今までの経験がいかせれる仕事がしたい」と思ってフォトスタジオでバイトを始めてて、お金はギリギリだけどあったから、ニューヨーク留学を決めてから留学は早かったです。

ー 2回目のニューヨーク留学をされたんですね!なんでニューヨークにもう一度戻ったんですか?

YOKOYAMA : 特に理由はなくて、ニューヨークが好きだったのもあったから戻りたかったんです。なんでとりあえず戻ってきて、前同様に語学学校いきながら写真の授業とかも受けていたんですが、フォトスタジオで働いて稼いだお金は留学1年目で全部なくなり、2年目は親のサポートで生活したのですが、3年目に入るあたりで本格的にお金がやばくなったんです。その時に思ったのが昔から物を作るのは得意だったから、何か作ってお金に変えようって思ったんです。なんでとりあえず友達と一緒にブランド作ったりして、T-Shirt作ったりしたんですが、シャイだったから頑張ってネットにアップするくらいしかできなかったので、当然売れるわけもなく「あ〜お金やばい」って感じだったんですよね。

帽子を作り始めたきっかけ

ー 今の流れだと帽子を作るきっかけが見えないのですが、何がきっかけで帽子を作り始めたんですか?

YOKOYAMA : この時も写真関連の授業を受講していたのですが、一緒に受講してる人達を見た時に「あ、周りと同じ事しててもダメだな」って思ったんです。この時はまだ若くて当時は奇抜な恰好していましたね…スカート履いたり、爪塗ってみたり。で、ある時服屋さんで変わった形をした帽子を見つけたんです。当時からスケーターだったのもあってかぶり物は好きだったんです。その服屋さんではハットをみたんですが、その時に「あー、かっこいいなー」って思ったのと同時に「あ、これなら俺でも作れるんじゃないかな?」って思ったんです。

ー 他にも選択肢はなかったのですか?

YOKOYAMA : いや、選択肢は帽子以外にも革靴かスーツかあったんですが、スーツは修行したりしないといけないからちょっと違うかなーって思ったんです。修行とか嫌いなんで(笑)そうなると革靴か帽子か2択になったんです。そしてその後に革靴と帽子を実際に見比べて「あー、革靴難しそうだな。帽子の方が簡単そう」って思って帽子を選んだ感じですね。

ー そんな簡単な感じで帽子を作ることを決めたのですか?(笑)

YOKOYAMA : だけど、その時はどうやって帽子を作るかなんてもちろん知らないし、型が必要ってことも知らなかったです。それが13年くらい前かな…当時からネットが大好きだったんで色々調べたんですが、やっぱり当時の情報量だと全く求めてる情報が見つからなかったんです。全く見つからない日々が続いてたんですが、日本に帰国しないといけなくなって日本に帰国したんです。何をしていいかもわからなくて家でゴロゴロテレビを見る習慣があって、昼の1時から4時くらいにやってる主婦向けの番組あるじゃないですか?その中で「おばあちゃんの、あの思い出の帽子を再現したい」みたいな番組があって、「お…」と思ったんです。その番組で東京にある小さな帽子学校が紹介されてて、「あ!ここなら帽子の作り方が学べる!」って思って、とりあえず学校に顔出しに行きましたね。

ー 見つけてからの行動力すごいですね!

YOKOYAMA : まだ当時は若かったのもあって恥ずかしいって気持ちはなかったんです。あと学校っていっても家の一階で教室やってますみたいな感じで、生徒さんは家の周りの奥樣方や美大生くらいしかいなくて、THE学校という感じではなかったです。なんで面接官が校長先生で、とりあえず面接時は自分自身が考えたデザイン画を全部持ってて「これが作りたいんです!」とアツく話したんです。そしたら校長先生が「君は作りたい帽子が決まってるんだから、ここで学ぶ事はないから学校入らなくていいよ」って言われたんです。

ー え?!新しい答えですね笑

YOKOYAMA : そうそう!おれも「え!そうなんですか…?」って思って一瞬凹んたけど、校長先生が「君が作りたい帽子っていうのは木型帽子のやつで、うちで教えれるようなものではないんだ。だから木型職人を紹介するよ。だけどそのかわり1個10万以上するけど大丈夫?」って言われて、大丈夫じゃないけど「大丈夫です!」って言っちゃったんです。(笑)心の中では「そんな高いのか…」って思いましたね。

ー 高いですね!10万ですか…それで作ったんですか?

YOKOYAMA : 作らないと始まらないんで(笑)木型を作って終わりではないんで、校長先生が「木型を作ったら一度学校に来なさい。1日で作り方を教えてあげるから」って言われたんです。そして木型が出来たので校長先生と一緒に市場に行って、一番簡単な麻を使った帽子を作ることにしたんです。そこで「こうゆう素材はココで買うんだよ〜」とか、ミシンを使うときは「ミシンってのはこうやってやるだよ〜」とか一通りみて、卒業させられました(笑)

ー え!学校じゃないじゃないですか(笑)ミシンとか使えたんですか?

YOKOYAMA : 使えるわけないじゃん!自分普通の男の子です。なんなら中学の時に遊び半分で友達の指をミシンで縫っちゃったことあってトラウマになってくらいだよ(笑)ミシンは人を傷つけるものって思ってたからね。だけど怖いのはミシンだけではなくて、材料屋とかも校長先生に何店舗か東京にある材料屋を教えてもらったんだけど、そこのオーナーさんが怖かったね〜だけど、今思うと色々自分自身で何もわからない状態でも頑張ったのはよかったと思いますね。

ー 例えばどうゆうことがよかったですか?

YOKOYAMA : えー、例えば「この素材かっこいい!」とか思って買って、持ってる木型に汗流しながら無理矢理はめ込んだりしてた時に、「あれ?校長先生がやったときは簡単に入ったのにな…」とか思って、自分なりに試行錯誤しながらコツを掴んでいきましたね。この当時は木型が1つしかなかったから、1つの木型で色々な生地やスタイルを作って頑張ってたね。実際数年後に生地屋に行った時に、美大生と先生みたいな人が店にいて、美大生が「あーこの生地可愛い!」って先生に話したら「これは難しいから、今は無理だよ」と言われてた生地を自分は始めからチャレンジして使ってましたからね。彼らと違って初期に学ばないといけないことを経験から学んでたんですよね。無意識に。

ー 無意識に学ぶって例えばどうゆうことですか?

YOKOYAMA : こうゆうスタイルで帽子を作ってるのもあって、自分のアトリエには普通の帽子職人が使わない道具がたくさんあるんだ。その代わり帽子を作る道具はないけど、油絵の道具とか針金切る道具とかたくさんある。邪道っちゃ、邪道だよね。だけど、自分なりに夢中でやってたことがオリジナルな帽子を作るアイディアに繋がってるんだと思います。

ー 試行錯誤で作るって言っても木型は1つ10万ですよね?よくたくさん買えましたねー

YOKOYAMA : いやいや、木型は1つでしたよ。お金なかったんで…この当時は木型が1つしかなかったから、1つの木型で色々な生地やスタイルを作って頑張ってました。あの時は展示会が迫ってて時間がなかったのもあったんです。

ー そんなにすぐ展示会をやったんですか?どこでですか?

YOKOYAMA : 帽子を作る!って決めてから4ヶ月後にニューヨークで留学してる時に知り合ったブルックリンにあるお店兼ギャラリーの場所があって、そこでギャラリーをやるって決めたんです。自分の場合は時間を決めないとやらないから、デットラインを決めたんです。そしてギャラリーをやるなら20個くらい帽子を作らないといけないって話になったけど、木型は1つ。だから考え抜いたんだ…1つの木型で何種類もの帽子を作る方法を。その考え抜いた結果が今では定番になってる上はハットでツバがキャップのデザインがその1つだったりするんです。この形は今では定番化されてるけど、あのデザインを発明したのは自分なんです。この形が生まれたのも1つしか木型がなくて、色々考えてたら「あれ?これツバ部分の横取ったらキャップになるじゃん」って思って出来たのがこのデザインなんです。だから、俺の場合は真面目な人間じゃないからデットラインが必要で、そのデットラインを作ったのはすごいよかったと今でも思っていますね。

ー その展示会の反応はどうだったんですか?

YOKOYAMA : あの時はビザがもうなかったから、観光ビザでニューヨークに行きました。その時展示会にたまたまダナ・キャランのディレクターが遊びに来てくれて、その時に俺の帽子を気に入ってくれたんです。数日後にその人から連絡がきて、そのシーズンで結構自分の帽子を押してくれたみたいだったけど、彼女から「ごめんね、だめだった」って連絡があったんですが、自分は帽子を作り始めて7ヶ月なのに有名ブランドダナ・キャランにひっかかったことに未来を感じたんです。もちろん、このギャラリーがきっかけでファッション業界の人とも仲良くなれました。あの時は楽しかったから色々な種類の帽子を作ったな…なんせ始めて7ヶ月だったからね!30個くらい作ってましたね。

ー その中でも印象に残ってる帽子はありますか?

YOKOYAMA : 今だったら絶対作らないけど、フェルト生地にペンキを塗って、ガチガチに固めて、帽子のフロントに骨っぽいフォントで自分のブランドネームをフェルト生地で貼ったりしてましたね。当時は普通の人がどうやって帽子を固めているか知らなかったから「ペンキ塗ったら固まるだろ」って思って塗ったんです。その結果ガチガチに固まって「お、新しいな」って思ったりしてましたね。他の帽子も結構なんとなくで作ってましたね、当時は。その後はアローズやビームスとかからオーダーがきて色々な帽子を納品してたけど、今思うと結構すごい帽子を納品してたなって思う帽子もありますね(笑)

ー 何がきっかけでアローズやビームスに卸すことになったんですか?

YOKOYAMA : たまたま知り合いで卸関連の展示会に参加してる人がいて、彼に紹介してもらったんです。その時に今までの話をしたら「なら、今度一緒に展示会やろうよ」って話になって「え?卸関連の展示会ってなんですか?」って言ったら「そんなのも知らんの?その展示会にバイヤーたくさん呼ぶんだよ」って言われて「お〜そうやってバイヤーに売るんだ」って関心しましたのを覚えています。この時に卸のシステムを知りました。そこで何回か展示会をやる中で知り合いが増えてきて、帽子を作り始めて1年半くらいでアローズやビームスやシップスやナノユニバースとかに卸してました。だけど、この時はお客さんとかにはブランド名を認知してもらっていたけど、素材屋の人達にはまだまだブランド自体は浸透してなかったんです。それもあり海外の素材屋に電話をしても中々話しを聞いてもらえなかったんです。だけど、ある賞を取ったきっかけで大きく変わったんです。

ー 何か賞を取られたんですか?

YOKOYAMA : 97年にフランスのアクセサリーの世界では結構有名な展示会に「もしよかったら出てみない?」って呼ばれたんですよ。その展示会は出れたら結構名誉みたいな展示会ってのもあって、フランス旅行もかねて行こうかなって思って参加したんです。だけど、アクセサリーの世界で有名な展示会ってこともあってネックレスとかの小物が展示されていて、価格も60ドルとかで自分が出店してる帽子が300ドルとかだったんで、誰も見なかったんですよね。全然人来なくて、途中でyoutubeとか見てたんです。(笑)そんなことしたらますます人が来なくなったんですが、時々雑誌関連の人が見に来てくれたんです。帽子の業界で唯一のマガジンの「HAT Magazine」っていうロンドンの雑誌者がきて、年に1回コンテストをやっていて、そこで優勝するとデザイナー・オブ・ザ・イヤーで雑誌の表紙に載るって話をしてくれて、最後に「あなたの帽子は素晴らしいから、今回のコンテストに出さない?」って言われて、「OK、出すよ」って話になって3型送ってくれってことで3型送ったんです。それでコンテストに出たら3型中2個がファイナルに残って、そのうちの1つがデザイナー・オブ・ザ・イヤーの賞を受賞したんです。

ー デザイナー・オブ・ザ・イヤーを取ることで大きく変わるんですか?

YOKOYAMA : いやー、変わったよ!この雑誌は帽子業界唯一のマガジンって言うだけあって、世界の色々な素材屋に電話する機会がたくさんあったんだけど、今までは「あんたどれくらい買うんだ?」みたいな反応だったのが、「あ!お前HAT Magazineで賞取ったやつだろ。おめでとう。何が欲しいんだ?」みたいな感じに変わったんです。これでお客さんからも素材屋さんからも認知されたことを体感しましたね。だけど、この時辺りから日本にい続けることに疑問を感じて、「やっぱりニューヨークに住めたらいいな〜」って思ってたんです。この時に、オンライン上で年に1回グリーンカードの抽選に応募してたのを忘れて結果を見たら….まさかの…当たってたんだよね(笑)

ー え!グリーンカードの抽選であったんですか!運いいですね!

YOKOYAMA : まぁグリーンカードが当たる前は日本とニューヨークと日本を行き来するような良い生活をしてたんですよね(笑)だけど、今の奥さんとその頃付き合っていたので、彼女と一緒に住む為には市民権を取得しないといけないってことを知って「うわー、めんどくさいなー」って思ってたら、まさかの奥さんもグリーンカードが当たったんです(笑)なんでニューヨークの今の家に引っ越しをして、ニューヨークを拠点に活動して、日本の展示会のシーズンだけ帰国して展示会に参加などしていました。その頃は伊勢丹、シップス、ビームスなど有名な店に卸せてたので、ニューヨークのお店とかには卸の仕事はしてなかったんですよ。当時は「ニューヨークの店舗に卸せば金持ちなれるよ!」と周りに言われたんですが、めんどくさかったんですよね…

ー だけど、今は卸しをやめて、店舗を持ってるじゃないですか?なんで卸をやめたんですか?

YOKOYAMA : 日本で卸のヘルプをしてくれてた女の子がいたんですが、彼女も子供が出来たりして忙しくなってきて、少しずつ仕事出来なくなってきたんです。もちろん売り上げは下がる一方で…その時に「あ!やばい!新しい子探さないと」と思ったんですが、卸を続ける為に日本に帰って新しいパートナーを探したりしって考えると…「卸やめよ」って思いました。

ー 理由が単純すぎませんか?(笑)その理由がお店を今回持つきっかけだったんですか?

YOKOYAMA : それは大きいと思いますね。やっぱりニューヨークでも自分の帽子は評価されるし、わざわざ住んでるアパートまで商品を買いに来てくれる人もたくさんいたんですよね。あとは店舗を持つことで今まで卸さなかったニューヨークのバイヤーが手にとって自分の帽子を見て、気に入れば卸の話がくるだろうって狙いもありますね。まぁ出来てまだ2週間なんで何もわからないですがね。

ー お店は結構勢いで作った感じなんですか?

YOKOYAMA : 去年の今頃は店を持つなんて全く思ってなかったです。あの頃は卸をやってたんだけど、徐々に売り上げも落ちてて「あー、そろそろやばいな」って思ってた時に、奥さんに「やるしかないんじゃない?」って背中押された感じですね。実際は自分のスタイルならお店に常に帽子を見せて、好きな人が買ってくれたり、バイヤーがオーダーしてくれたらいいかなって前から思ってはいたんです。あとは自分の帽子が認められれば営業なんてしなくても人が集まってくる流れが作るには店を出すしかないとも思っていました。だけど、よくよく考えると営業もアパレル関連の人がよくやってる合同展示会などもが苦手だから、お店を出すしか選択肢は始めから無かったんだです。

ー 良い奥さんですね、奥さんが結構大きな影響与えてるんじゃないですか?

YOKOYAMA : 奥さんがいなかったらお店は今でも持ってないですね。多分今住んでる家の家賃を落とそうかな?って話をしてますね(笑)

ー 奥さんの大切さは同じ経営者としてよくわかります!今お店はオープンされたと思うんですが、今後はどんな展開をしていく予定ですか?

YOKOYAMA : とりあえずは店をキープですよね。あとはブランドをもっと広めて、アメリカのかっこいいお店の卸を増やしていきたいですね。その為にも「yokkoyama hat marketに行けばカッコいい帽子が手に入る!」って言われるくらいかっこいいお店作りをし続けないといけないですね。あともう1つ壮大なプロジェクトがあって、日本人って漢字ってダサいって思ってるじゃないですか?だから日本人が一番嫌いそうな日本語のアイテムを作って、ニューヨークのスケーターがこぞって使うようなアイテムにして、日本のスケーターシーンが無視出来ないくらいのムーブメントを起こしたい!その時に日本のバイヤーが「卸させて下さい」ってお店にきたら勝ちかなって思っています。

ー インタビューありがとうございました!最後に今ニューヨークで帽子職人になる為に学んでる人に一言下さい!

YOKOYAMA : 学校で学んじゃだめだよ。もし俺が学校で学んでいたらショーは取れてなかったです。例えば絵を描いている人いるじゃないですか?学校で学ぶ前までは顔を書く時は適当に書きたい部分から書き始めると思うんですが、それが学校で顔を書くときは、まず「○」を書いて、中に「十」を丸の中に書いて顔を書くって学ぶじゃないですか?それを学んだ人は一生顔の書き方をそれで書いちゃうんです。教わる前はオリジナリティ溢れる描き方が出来たのに、学んだらみんなと同じ描き方しかできなくなるんです。だけど、アートの世界では教わる前に描いてた顔の描き方こそアートであり、その人の内面なんです。学校は学べる場所だけど、それ以上に失う場所でもあると思います。だけど、俺も一時期は学校に行きたいって思ってたけど、お金の関係でいけなかったのは今となってはラッキーだと思ってますね(笑)