「自分にはそれしかない!」と思い込む -スタイリスト Hissaが語るニューヨークで歩いた道のり

Hissa Igarashi:ニューヨークを拠点に活動する日本人トップスタイリストであり、『VOGUE』をはじめとするハイファッション誌でエディトリアルを手がけるほか、「TWELV MAGAZINE」の編集長をしている。またフォトグラファーとしても現在活動中。

「自分にはそれしかない!」と小さい頃から思い続けてつかんだ今の環境。たまたまスタイリストになるために始めたイベントプロモーターがきっかけで見つけた海外への憧れ。そして知り合いがニューヨークに住んでいたことがきっかけで訪れたニューヨークで見つけた真実。

0からスタートしたニューヨークで彼が夢を叶えるためにした行動とは?そして夢を叶え続ける彼の道のりをインタビューで聞いてみました。

小さな頃からブティックに囲まれた環境があった

ー 今日はよろしくお願いします!では、入りは一般的な質問から…ファッションに興味を持ったきっかけはなんですか?

Hissa Igarashi(以下Hissa):きっかけは母親がずっとブティックで働いて、その時住んでたのがブティックの2階でした。毎日お店に顔を出してたこともあって小さい頃から服に囲まれた生活をしていました。そんな環境の中で育ったこともあって中学生になった時には「将来は夢は服関係の仕事をする!」と思っていました。

ー では、自然に夢が環境の中から決まった感じなんですね。

Hissa:そうですね。だけど、服関係と言っても母親の姿しか見てなかったので「将来は服屋を経営するのかな?」と思ったこともありましたけど、お店でお客様の服をコーディネートしている母親を見て、何か惹かれるものはありました。それが今思うとスタイリストになりたいと思ったきっかけなのかもしれないですね。

ー なるほど。では、具体的にファッションの勉強をしたのはいつですか?

Hissa:高校卒業後は文化服装学院に入学しました。

文化服装学院(ぶんかふくそうがくいん、英語:Bunka Fashion College)は、日本の東京都渋谷区代々木にある服飾学校。

Hissa:スタイリスト科を1,2年は選択したのですが、実際は想像していたスタイリストの勉強でを学ぶことはなく、洋服を作ったり、写真を撮ったり、メイクをしたり、総合ショーのプロデュースなどを学びました。2年間授業を受ける中でスタイリストになるために入学したのに、そのことについて学べないことに疑問を持ち、先生に「スタイリストの勉強はしないんですか?」と尋ねました。そしたら「スタイリストになりたいなら夜遊びに行って、友達をたくさん作りなさい。その友達からスタイリストにとって必要なことが学べるから。」と言われたのです。衝撃でしたね。

ー けど、スタイリストの勉強ができなかったことで夢を諦めようとは思わなかったのですか?

Hissa:ありましたよ。2年間授業を受けてスタイリストになる夢は一回諦めました。3年生になる時に「じゃあ、何をやろうか?」と悩んだ時に、ファッションショーの授業を受けることにしました。理由は2年間で先生に「夜外で遊べ」と言われたのをきっかけにクラブに行って友達を作ったり、当時クラブイベントが流行ってたこともあって自分も周りの友達と協力して2500人を超す大人顔負けのイベントを開催したりしていました。そんなこともあってイベントをマネージメントすることが自分に向いてると思いました。

ー では1年間ファッションショーの勉強をしてから就職はどうしたんですか?

Hissa:2,3人仲良かったメンバーと一緒にイベント関係の会社を立ち上げました。苦労はたくさんしたけどスタートから集客もあったし、イベント内容もすごい楽しかった。だけど、自分の中で一番楽しかったのはイベント後に始発待ちをしている間に毎回通ってた「青山ブックセンター」で洋書を読むの時間でした。特にイタリアの「VOGUE」にはかなり衝撃を受けていて、その時「やっぱりスタイリストになりたいな」という気持ちと「海外で仕事をしたいな」と思うようになりました。これが海外に出たいと思ったきっかけです。

ー では、すぐに海外に出たのですか?

Hissa:いや、初めは日本で有名なスタイリストの下で働こうと思って、金城武さんのスタイリストの方に連絡を取りました。当時はEメールも普通に使っていたのですが、自分は手書きの方が気持ちが伝わると思って手紙で求人応募をしました。それが良かったのかわからないですが、採用してもらい1年間働きましたけど、彼の近くで働いてみて自分のやりたいことは海外にあるなって改めて感じました。彼もすごい素晴らしいスタイリストでしたが、自分の夢はもっと世界で戦いたいと思った時に「やっぱり世界で戦うなら、自分自身が世界で一番レベルが高いと思っていたイタリアの「VOGUE」でスタイリストとして働きたい!」と強く思うようになりました。それイタリアに行こうとして、イタリア語とかも勉強したり、イタリア留学の準備などもしていました。だけど、イタリアには留学しませんでした。

ー え!そこまで準備をしたのにイタリア留学しなかったのですか?

Hissa:高校、大学とお世話になった先輩がニューヨークに住んでいて、「うちに泊まっていいから、遊びにニューヨークおいでよ」って言われて、軽い気持ちで2001年ごろにニューヨークに行くことにしたのです。期間も「せっかく行くなら3か月MAX滞在しよう」って思って3か月滞在しました。

ー その時はもちろん英語は話せないですよね?

Hissa:全く話せなかったです。だけど、英語が話せないを言い訳にするのではなく、とりあえず色々な場所に顔を出して友達を作って、そこから人脈を広げようと思っていました。なので、毎日ガイドブックに載ってるオシャレなバーに1人で行ってファッション業界っぽい人に自分から声かけり、アパレル関係のお店でスタッフに声かけて遊びに連れてってもらったりしていました。そんなこともあって友達が短期間でたくさんできて、友達の中の1人がたまたま遊びに行った時に色々な人の住所や連絡先が書かれていたリストを持っていたんです。その中に自分が憧れていたイタリアの「VOGUE」でスタイリストをしている人の連絡先が書いてあったのにはビックリしました。その時に彼がイタリアではなくニューヨークに住んでることを初めて知りました。そこから色々な人に話を聞くと「イタリアのVOGUEのほとんどが実はニューヨークで撮影されているんだよね」って聞いて、「ならイタリアじゃなくて、ニューヨークに住まないと」って考え方が変わりました。元々イタリアのVOGUEに興味があったから、住みたい国を変えるのは抵抗なかったです。

自分の夢がニューヨークにある

ー 衝撃でしたね。それがわかっても観光ビザなので帰国しないといけないですが、留学をしたのはいつなんですか?

Hissa:留学までには2年くらいかかりました。帰国してから2年くらいはお金を貯めてたのと、日本でも英語を勉強したかったから夜は六本木のバーとかレストランで働いて、外国人の友達作ったりしていました。当時は「2年後にニューヨークに住む」と覚悟を決めていたから英語には本当に力を入れていましたし、「自分の夢がニューヨークにある」ってわかっていたから自分自身にも妥協もしなかったです。

ー 実際留学してからどんな感じだったのですか?

Hissa:とりあえず語学学校に行きながら、観光で来た時と同じで夜は色々なバーに行って友達を作ったり、情報収集をしていました。ニューヨークは人の出入りが激しい街だから2年前の人が他の場所に移動している確率も高いですが、また動けば違う面白い人とも簡単に会える町なんです。それに今までの経験で人に出会えば出会うだけ自分自身の夢への可能性が高くなるのと、見知らぬ土地で情報がないなら現地の人から情報をもらえるように自分から動くのが夢への一番の近道だと経験から確信していました。なので最初の3か月は色々なバーで色々な人たちと呑んだくれて、遊んでいました。特に足を運んだのがゲイパーティーでした。

ー なんでゲイパーティーに行かれたんですか?

Hissa:やっぱりLGBTの人たちはファッション業界ではトップを走ってる人が多いし、彼らどう物事を考えているか理解してるので、もっと彼らと仲良くならないと自分の夢は成功しないと思っていました。だけど当時は自分の中では差別してるなんて全く意識してなくても、無意識のうちで少しでも差別をしている自分がいるのは感じていて、そんな自分が嫌でした。だからもっと彼らを理解するために彼らの輪の中に自分から入ろうと思って、ゲイパーティーには通いつめました。

ー なるほど。具体的にファッションの業界に入ったのはいつですか?

Hissa:それだけ多くのファッションの業界の人と友達になると自然に色々なところからインターンの連絡がきました。それに驚いたのは「日本のアシスタント」と「アメリカのアシスタント」の違いです。まず基本的に日本だと師匠と弟子という関係性になりますが、アメリカではアシスタントという職種として扱われます。なんで簡単に言うと、その仕事さえやっていれば、あとは何してもOKなんです。先輩後輩という文化もありますが、それよりもその仕事が出来ればアメリカではアシスタントとして認めてもらえます。スタイリストはスタイリスト。アシスタントはアシスタントなんです。もちろんスタイリストによって違う場合もありますが。

ー そのインターンの中で文化の違いは感じましたか?

Hissa:日本人みたいに真面目に働いたり、人を騙したりしないというような心は外国人は少ない気がします。

ー なるほど。まだこの時は学生ビザだと思うのですが、いつビザを切り替えたのですか?

Hissa:ちょうど5年の学生ビザが終わるまでにアーティストビザを取得するために色々なインターン先の資料を集めて、ニューヨークで次に帰ってくる際のエイジェントもある程度決め、日本に一時帰国しました。日本では半年くらいニューヨークでの経験を生かして仕事をし、アーティストビザ取得後にニューヨークに戻った後も日本の仕事はしばらく続けました。

ー どんな作品をアーティストビザ申請時には提出したのですか?

Hissa:作品はかなりこだわって作りました。例えば一回一回のテストシュートで使う服をレンタルするんですが、レンタルって思っているよりも高いんです。例えば9000ドルの高級ブランドの服をレンタルしようと思うと3日で900ドルとかかかります。ルブタンの靴が1200ドルだと3日で120ドルかかります。そんなお金は当時なかったので、そのオーナーさんに「俺は本当にスタイリストになりたい。自分は食べ物や住むところがなくなってもいいから、自分の色が出るようなスタイリングがしたい。ドレスを借りるのに900ドルかかるのはわかるけど、今はお金がない。だけど将来絶対いいスタイリストになって、たくさんレンタルするから今は特別価格で貸して欲しい」ってお願いしました。その方もすごい優しい方で自分の熱意を感じてくれて特別価格でやってくれました。それくらい自分の作品作りには妥協は初めからしなかったですし、高級な物を扱うことになると「絶対傷つけてはいけないし、絶対汚してもいけない」という高級な物の扱い方も学びました。

ー それだけ気持ちがこもった作品だったのですね!では、実際ニューヨークに戻ってから仕事はどんな感じでしたか?

Hissa:アーティストビザ取得後は日本でスタイリストの仕事だけで食べていけれたのもあったので、自分が一番やりたいことでもあったエディトリアルの仕事をすることにしました。

エディトリアルデザイン(英語:editorial design)とは新聞・雑誌・書籍などの出版物のデザイン。読み手の視線、意図を考えて視覚的に効果的な図や写真等を整理・配列・編集あるいは計画すること。紙面構成。

Hissa:コマーシャルの仕事はクライアントの要求を中心に「売るための物」を作らないといけないのですが、エディトリアルの場合はある程度自分の好きなように作れる自由度があります。だから、自分の色が出やすいエディトリアルをやることにしました。当時は香港とロンドンにクライアントを持ってエディトリアルの仕事をしていました。特に香港のクライアントでもあったwest east magazineはニューヨークでも有名な雑誌でした。

ー なんでエディトリアルなんですか?コマーシャルの仕事の方が稼げる気がしますが?

Hissa:それは人それぞれの考えだからなんとも言えないですが、自分の考えでは自分のやりたいことをやってないと上には上がれないって考えがあります。基本的にアメリカ人のスタイリストの人はお金のことを考えて人生設計をするけど、エディトリアルの技術が上がらなかったら未来に大きな仕事を出来るような人間にはなれないと思っています。実際にコマーシャルの仕事から大きな仕事をしている人は見たことないです。

ー どれくらいの間、そのような仕事をしていたのですか?

Hissa:3年くらいは日本とニューヨークを行き来していましたね。実際に日本だけのお金で生活できるくらいは稼げていました。だけど、リーマンショックをきっかけに多くの雑誌の出版元が倒産したんです。それがきっかけで雑誌業界全体のエディトリアルの力が弱まってきました。もう少し具体的に言うとフォトグラファーの質やクリエイティブの質が下がったのです。そんな現実を見た時に「困難だったら自分自身で雑誌を作ろう」って周りの仲間と話をし始めたのです。

ー 雑誌を独自で作ることにしたのですか?

Hissa:当時韓国人の友達で雑誌を作る話をした時に興味を持ってくれた人がスポンサーになってくれて、雑誌が作れる話になったんです。スポンサーがついてはいたのですが給料は出ないので、自分で別で生活する分は稼がないといけないですが、自分自身がやりたいことを100%でエディトリアルできるのは楽しみでした。

ー その作られた雑誌はテーマはなんでしたか?

Hissa:チャリティーとファッションをテーマにした雑誌で、アライアのインタビューが取れたのとファッションストーリーがしっかりしていたのが好評で、初めのスタートから色々なメディアが取り上げられて結構話題になったんです。この雑誌の収益は広告なんですが最初と最後の広告はチャリティーに関する広告を無料で掲載していました。

ー 雑誌は初めての試みだったと思うのですが、やってみてどうでしたか?

Hissa:想像してたようには全くいかなかったです。立ち上げ後は誰も思ったようには動かないし、洋服も使いたいものが中々取れないし、200ページのほとんどを自分がスタイリング&企画をしていましたからね…それに雑誌の活動に時間を取られ過ぎていてスタイリストとしての仕事もできなかったのですが、その時は自分たちの作りたい雑誌を作ることが夢になっていたので、がむしゃらに走っていました。だけどこの雑誌は1号で打ち切りになってしまったんです。

ー そんなに好評だったのに1号だけで終わったんですか?

Hissa:一緒に立ち上げた韓国人のパートナーが1号出版した後に「これは俺のものだからね」って急に言い始めたのです。元々立ち上げの段階で50/50じゃないとやらないって話をして、彼を信用していたので書類等は作らなかったんです。だけど、初めから色々なメディアに出たこともあって、ブランド力を持ってしまった僕たちの雑誌の未来の可能性を彼が感じて裏切ったんでしょうね。

ー だけど、ほぼHissaさんが作られていたのですよね?

Hissa:そうですよ。だから、そんな話された時は「マジでこいつ言ってんのか?」って自分の耳を疑いましたよ。あの雑誌の90%以上が自分が作った思い入れもあって「どれくらい怒っていたか?」と聞かれても答えれないくらい彼に対してイライラしていました。そんな話を日本の友人にしたら「俺がスポンサーなってあげるから雑誌作り直せばいいんじゃない?」と声をかけてもらったんです。それで生まれたのが「TWELV MAGAZINE」だったんです。

ー それがTWELV MAGAZINEの始まりだったんですね!TWELV MAGAZINEはどんなテーマだったんですか?

Hissa:基本的は初めに作った雑誌と同じでチャリティーとファッションなんですが、チャリティーのお金の行く先って不透明なことも多かったのでTWELV MAGAZINEのチャリティー広告は「国境なき医師団」のチャリティー広告を掲載していました。僕たちが「国境なき医師団」を選んだ理由は「世の中の医療がない地域に医療を届けよう」というテーマに惹かれたんです。実際に注射一本で人の命が助かることもあるんです。あとは世界食糧危機とかのチャリティー広告なども掲載しています。寄付に関しては雑誌の売上の12%を寄付すると決めています。

ー 雑誌もTWELV MAGAZINEで寄付も12%なんですね?笑

Hissa:自分自身12って数字が好きなんです。なんで雑誌名も寄付の%も「12」にしたんです。

ー TWELV MAGAZINEのスタートアップはどんな感じだったのですか?

Hissa:その話をもらったのは日本だったんですが、ニューヨークに戻ってすぐにプロジェクトをスタートしました。まずはオフィスをどこにするのか?誰と一緒にやるのか?を見つけることにしました。オフィスは時間の合間を見つけて探し、人はクレイグスリストを使って外国人を探したり、ニューヨークで有名な日本の掲示板を使って探したりしていました。オフィスよりも人が最初に集まったので初めの2か月はwhole foodの2階とかでミーティングしていました。当時は全ての時間をTWELV MAGAZINEに使っていました。

ー 助けてくれた彼らの多くはインターンだったんですか?

Hissa:そうですね。自分自身もお金をスポンサーからもらっていなかったので、貯金を崩しながら生活をしていました。なので資金の問題もありインターンを集って、彼らに助けていただきました。ですが、インターンでも本当にTWELV MAGAZINEを一緒に成功させようと思ってくれる人と一緒にやりたかったのもあり、指導にも熱が入りました。そんなこともあり初めのスタートアップは30名ほど集まってスタートしたのですが、多くの人がプロジェクトから離脱してしまいました。ですが、それでもTWELV MAGAZINEのことを理解して今でも一緒に歩いてくれる仲間もたくさんいました。本当に彼らには感謝しています。

ー TWELV MAGAZINEの発行はスムーズにいったのですか?

Hissa:もちろん、いかなかったですよ。まずは印刷してくれる業者探しから始まり、他の作業も全部やらないといけなかったので、ネットで調べては電話しての繰り返す毎日です。もちろんプロが関わらないとできない部分はお金を払って解決しましたが、極力自分自身で出来ることはやりました。初めての経験がたくさんありすぎて大変でしたが、なんとか発行することができました。人間はがむしゃらになればやれるって改めて感じました。

ー 知らないことをやりきるのは本当に大変ですからね…実際TWELV MAGAZINE1号目の反応はどうでしたか?

Hissa:初めに作った雑誌よりも評判は良かったです。理由としてはファッションストーリーの質が比べものにならないくらい良かったこととスタイリングで使う洋服の質が上がったこと、スタイリングのレベルが上がったこと、セレブを起用したこととか他にも色々理由はあるけどTWELV MAGAZINEは自分自身が考えていた雑誌の集大成と言ってもいいくらいの出来上がりでした。あとミーシャバートンに赤ちゃんを持たせてた特集ページを作ったり、自分自身がアシスタント時代にお世話になった人達にインタビューしたのが反響がすごい良かったです。インタビューに関しては自分にしか出来ないコンテンツでファッションに関わる人なら誰もが読みたい内容でした。そんなこともあってファッション業界ではTWELV MAGAZINE1号目から注目はすごかったですね。自分の師匠にインタビューをさせてもらったんですが、本当に何度も何度もお願いをしてインタビューを取らせてもらいましたね。

ー なるほど。TWELV MAGAZINEでは2号目はスムーズに出版できたのですか?

Hissa:出版に関しては4号まで出版し、そこからはWebマガジンに切り替えました。出版をしている時は毎回発行後に2週間だけ休みを取って、すぐに次の発行準備に取り掛かかっていました。そんなことを4号まで続けたのですが体力が持ちませんでした。他にも理由はあるのですが5号目からは出版からWebマガジンに切り替えをしました。Webマガジンに切り替えてからはファッションストーリーだけで考えるとニューヨークで3本の指に入っています。その理由はハイブランドを使えるWebマガジンがないんです。正確に言うとどこの出版社も使えないのです。

ー それはなぜですか?

Hissa:雑誌全般のクオリティが低いからです。TWELV MAGAZINEは雑誌のクオリティをそのままWebマガジンに持ってきています。それがすごい大変なんですが、自分たちのやりたいことには妥協はしたくないので力を入れています。TWELV MAGAZINEではファッションストーリーも良いし、モデルや服も一流だけを使っています。そのこだわりがあったからニューヨークで3本の指に入れたんだと思います。

ー 出版からWebに移動したのは理由があるのですか?

Hissa:先ほどもちらっと話しましたが自分自身の体がもたなかったことが1つとファンからの要望が多かったことです。4か月休み無しで作業して、2週間だけ休んで次の制作のルーティンは体に良くなかったです。Webにすることで時間のスケジュール管理が楽になりました。あと世界の色々な場所にいるファンにリアルタイムで情報を伝えることを考えるとWebメディアというのもありました。あとはフォトグラファーとしても今活動しているので、そこにも時間を使いたかったのもあります。

ー フォトグラファーですか?なんで急に始めたんですか?

Hissa:2008年に日本に一時帰国した時に知り合いに「Hissaは写真撮るセンスあるから、このカメラあげるから写真取りなよ」って言われてカメラをもらったのがきっかけです。当時はカメラも触ったことなかったし、Photoshopも触ったことなかったので撮影もレタッチも初めてする作業だったので大変でした。初めのレタッチなんて6時間以上かかりましたからね…

ー それがどうフォトグラファーになることに繋がるのですか?

Hissa:それでTWELV MAGAZINEの2号目あたりでファッションフォトが撮影できるカメラマンを探したんですが、ニューヨークってフォトグラファーは溢れかえっているんですが、ファッションフォトを一緒に撮りたいなって思う人が見つからなかったんです。なら自分で撮ろうって思って撮影したていたのですが、そしたらいつも交渉しても超一流のフォトエイジェントの上の人に呼び出されて、どこから情報を入手したかわからないですが「あなた写真撮ってるわけ?」って急に言われたのです。そして「あなたは6年に1度現れるか、現れないかの存在だから、今すぐ全部捨ててフォトグラファーになりなさい」って急に言われたのです。

ー 今までやってきたことを全部捨ててですか?

Hissa:そうそう。そして「ニューヨークは何か1つの物に特化しないと成功はできない。確かにあたなのスタイリングはイケてるわ。だけど、あなたは写真の方が成功できる。しかもチャンスは1度。今この場でどっちを取るか決めなさい。」って言われたのです。だけど自分は「今までスタイリストとして夢を追いかけて、やっと自分のやりたかった雑誌もできるようになった状態で諦めれるわけがない」と答えましたのですが、「だったら、1ヶ月あげるから」と向こうも諦める感じがありませんでしたが、「辞めない!」ってすぐに言い返しました。そんな討論が終わり、その場を去ったのですが6か月後に「まだ辞めるつもりはないの?」と電話をもらいましたが、答えは同じで「今は責任感のある中で仕事をしているし、自分の夢を追いかけている途中だから、ここで投げ出すわけにはいかない」と言って断りました。

ー もしそのエイジェントのフォトグラファーになっていたらどうなっていたのですか?

Hissa:日本人快挙ですね。例えで言うとサッカー趣味でやってた人がいきなりバルセロナ1軍に入る感じです。それくらい有名なフォトエイジェントに誘われていたのです。本当にそれはすごい嬉しいことだけど、やりたかったことが他にあるから断らざるおえなかったのです。だけど、そんな超一流のフォトエイジェントの人にそう言ってもらえることで自分の可能性をもっと見てみたくてフォトグラファーになるためのトレーニングも雑誌の空いてる時間で始めることにしました。具体的に何トレーニングしたかっていうと1000人斬りじゃないんだけど、女の子の写真を1000人撮って作品を作ることにしました。

ー そんな多忙の中に新しいプロジェクトを入れたのですか?

Hissa:そうですね。スケジュールで言うと週5は雑誌の仕事をして、週末は女の子を集めて撮影するみたいな自分の夢への挑戦のために時間を使っていました。今は雑誌からWebに変わったので時間のスケジュールは少し楽になりましたが、今でもフォトグラファーとしてのトレーニングはしています。

ー 今はスタイリストとしてまだ仕事はしているのですか?

Hissa:自分の雑誌でスタイリングすることはあっても、他でやることは滅多にないです。今はフォトグラファーとして稼いでいます。なんでまた1からのスタートですね。

ー 今まで軸にしてたスタイリストを捨てて新たにフォトグラファーとして生きることに不安はなかったのですか?

Hissa:もちろんスタジオの使い方もデジタルカメラの使い方も100%理解していたわけでもなかったので、いくらセンスがあると言われても怖いと思うこともありました。だけど、怖いと思った時はその気持ちを殺すように努力しています。実際にスタイリストっていう夢を捨てて、0からフォトグラファーやるのは本当に怖かったです。だけど、自分で可能性を信じて選んだ道だから自分を信じたかったし、怖いと思うと何も出来ないから怖い気持ちを殺すことを絶えず意識していますし、これからも夢はどのタイミングで変わるかわからないですが、今持っている夢に対して素直に向き合って、全力で取り組もうと思っています。

ー 色々ありがとうございました!最後にこれからニューヨークでスタイリストになりたいと夢見ている人に一言ください。

Hissa:ニューヨークでファッションの勉強をすると将来に対してオプションが沢山あることに気づく人がほとんどだと思いますが、今自分がやりたいことを1つ決めて、「自分にはそれしかない!」と思い込むことが大切です。もちろんビザの問題や結婚願望や色々な選択肢が生活の中で出てくると思いますが、その色々なオプションに目がいってしまうのが能力を上げれない最大の問題。だからこそ言い訳をしてビクビクしているんじゃなくて、マイナス思考は全部捨てて自分を騙してでも自分の夢を信じきって行動してください。そうすれば夢は叶いますよ。